第18回 ギャラリー[亀の子館]特別展

■期間−平成12年6月25日(日)〜7月8日(土)まで ■会場−えさし亀の子本舗 八重吉煎餅店●2Fギャラリー亀の子館/江刺市中町3-12/TEL&FAX:0197-35-2708
 私たち(社)江刺青年会議所は、ここ数年地域を見つめ直す事業を通じ、私たちのまちの文化や風土などのすばらしさを実感してきました。それらのなかで、江刺の市民が誇れる人々を知る機会を得ました。
 そこで、その人物にスポットを当てて、次代を担う子供たちに、江刺のすばらしさをもっと知ってもらいたいと思い、この事業を行いました。
■実施日時  平成12年6月11日(日)午前9時〜午後5時半
■ツアーの主な内容
 1 タイトル 〜文化と芸術のまちの先人達〜 
         えさしルネッサンスツアー
 2 主催者 (社)江刺青年会議所
 3 参加者数 市内外より合計45名及び青年会議所会員28名
 4 コースと内容
  商工会議所にて出発式
(1)伊手・口沢の口沢会館(旧 口沢文教場)で宮沢賢治の「風の又三郎」についての説明を受けた。
  講師 佐々木 匡 氏(水沢在住)
(2)米里・佐伯郁郎の生家で「人首丸」の説明と佐伯郁郎の説明を受けた。
  講師 松淵  章 氏(米里在住)
     佐伯 研二 氏(花巻在住)
(3)梁川・梁川小学校で大滝詠一の説明を受け、梁川金津流鹿踊り「案山子踊り」を見学した。   
  講師 高橋  晋(江刺青年会議所)
     梁川金津流鹿踊り
(4)えさし郷土文化館で小沢懐徳の説明を受け、館内を見学した。
  講師 朝倉  薫 氏(えさし郷土文化館 館長)
(5)六日町・及政旅館で菊田一夫の説明と及川豪鳳の説明を受け、及川豪鳳の襖絵・掛け軸などを見学した。
  講師 酒勾 俊明 氏(岩谷堂男石在住)
     及川 利臣 氏(岩谷堂中町在住)
(6)商工会議所へ戻り、参加者に感想を聞き閉会
■百姓一揆に立ち上がった義民清三郎
 天明の大飢饉とそれに伴う疫病の流行、さらに寛政に入ってからも北上川やその流域の河川の大洪水に襲われるなどして、藩庫の収納米は激減した。藩では家臣から手伝金を徴収したり、庶民からも金子を借り上げたりした。庶民は生活に堪え切れず、田畑を捨てて他所へ逃れる者が多く出るようになった。
 寛政8(1796)年冬、南部領で大百姓一揆が勃発した。伊手地区にも逸早くこの情報が伝わった。地区の有志たちの協力を得て、清三郎は色々な資料を集め、藩に対する訴願の手立てなど具体的に計画を練り、準備を進めていた矢先の情報入手で、清三郎は意を決し一揆に踏み切ったと思われる。
 寛政9(1797)年3月7日、伊手村口沢の百姓清三郎指導のもとに、村民が集結し、仙台表に強訴しようとした。まず横瀬村を引き入れ、数百人となり、さらに近接の浅井・角掛・次丸・原体村にも呼びかけ、9日夜半には、総勢一600人が岩谷堂の大明長根に集結し上仙を企てた。岩谷堂の館主伊達は、家老伊藤森之助を現地に派遣し、鎮撫に努めるとともに、水沢の館主に連絡し応援を求めた。翌10日、家老伊藤森之助は、農民の要求を村ごとに願書として提出させ、それを必ず藩当局へ進達すると約束して、これを一まず解散させた。翌11日には野手崎村の百姓たちも立ち上がったが、地頭小柳川が願箇条を文書で提出させ、仙台表へ進達することを約束して鎮まった。
 さらに12日になると黒石村・大田代・小田代・黒田助・鴬澤・羽黒堂・土谷・石山・田茂山・二子町・田谷・倉沢の12ヶ村の百姓たち一200人が強訴しようと、四丑の渡で舟に乗り込もうとしたところを役人たちが押しとどめ、各村ごとに願箇条を書かせ、必ず藩当局に上申することを約束し引き取らせた。同日、高寺村でも百姓たちが集結し気勢をあげたが、ここでも役人を遣わし同様の措置を取ることで、取鎮めた。各村から出された農民たちの願箇条を集約すると
 (1)不当な課税や借上に対するもの。
 (2)買米に対するもの。
 (3)郡方役人・村方役付に対するもの。
 (4)窮迫農民救済に関するもの。
等三十数項目になっている。
 その後この一揆は胆沢郡に伝播し、水沢や前沢でも衝突を起こし、ついで磐井郡でも発生、気仙・登米・栗原・遠田・玉造・志田の各郡に及び、仙台藩未曾有の大一揆(仙北十郡大百姓一揆)となった。5月4日に終息。これにより仙台藩では、不正や私曲を働いた役人や大肝入・村肝入を処分したり、交代させたりした。奉行たちは従来の「郡村仕法」改革の議を練り、5月2日岩谷堂多聞寺にて次のような指令を出した。これを「寛政の転法」という。
(1)御代官は、御分領中に28人を置いていたが、九人を減員する。
(2)郡村の諸償は、すべて代官が詳しく吟味し、真に止むを得ざるものに限り、承認の印を与え取立てさせる。
(3)山林方横目・山林方締り役・御普請方廻り加勢役・定用水賦り・御本石所受払役は全廃、受払取扱はすべて代官方横目の仕事とする。
(4)前条の諸役人と御物威役人とで、御分領中でおよそ300人前後の役員を減員する。等々15項目の条項となっている。
 この新法により、農民が苦痛としていた諸役人からの重圧は軽減し、諸償も軽減され、作事・普請に要する夫役も改革され、用立てた諸費の未払分の精算についても目鼻がついた。さらに年貢の先納もなくなった。この後首謀者の召捕処分が行われた。
 首謀者を知り得た代官は、多数の捕手を引き連れ、清三郎を召捕るべく口沢に向かった。降雪が多く寒さの厳しい朝だった。清三郎が起きて辺りを見ると、家は捕手に囲まれていた。清三郎は子供の着物を火にあてて暖め始めた。代官と捕手が家に入って来たが、清三郎は「子供というものは自分の後継者だから粗末にはできない。貴殿等も子供は大切にして育てるべきものだ。」と言いながら子供に暖まった着物を着せた後、自ら捕手の縄を受けて連れて行かれたと伝えられている。その後、清三郎は岩谷堂の伊手坂で処刑されたとされている。
 生家の前の石碑には、寛政10年12月19日と記されており、清三郎の命日であると言われている。
 
■詩人で官僚という特異な人生を歩んだ佐伯郁郎
 佐伯郁郎は明治34年、江刺郡米里村人首に生まれた。本名は慎一という。旧制盛岡中学、早稲田大学文学部仏文科を卒業後、内務省警保局図書課に勤務。図書の検閲、出版傾向の調査、企画等を経て、戦時中は情報局情報官として時代の中枢に位置し、主に文化団体の指導監督、出版指導にあたった。
 郁郎は大学時代から詩作を始めており、代表詩集には『北の貌』『極圏』などがある。昭和初期から、詩の仲間と共にさまざまな文化・文学運動に参加。その活動や仕事を通して、北原白秋・萩原朔太郎・草野心平・山本有三・小川未明ら多くの詩人や作家、児童文学者たちと交流を深めた。
 戦時中、文化・芸術の主導権は、内務省と情報局にあった。すなわち、それは郁郎の経歴を指す。郁郎は国策協力へ導いた側にいたのである。おそらく郁郎は「芸術と国家」、つまり「自由と統制」の谷間で、苦しい選択の連続ではなかったかと考えられる。
 戦後の昭和21年4月、郁郎は岩手県庁に転任し、社会教育行政に従事する。その後、岩手大学の厚生課長を務め、定年後は生活学園短期大学(現盛岡大学短期大学部)教授として、保育科の設立と発展に貢献した。
 詩人で官僚。その特異な過去の経歴については一切語ることなく、佐伯郁郎は平成4年にこの世を去った。享年91歳であった。
 現在、米里の生家には、蔵を改造した「佐伯郁郎資料室」が開設されており、親族である詩壇史研究家・佐伯研二氏によって、その資料の整理・調査が行われている。なお、人首小学校には、佐伯郁郎の尽力で建てられた児童文学者・小川未明の詩碑がある。
■江刺に生まれた日本ポップスの父大滝詠一
 「さらばシベリア鉄道」太田裕美、「風立ちぬ」松田聖子、「冬のリヴィエラ」森進一、「探偵物語」薬師丸ひろ子。
 これらの大ヒット曲を作曲したのが、1948年に江刺市梁川で生まれた大滝詠一(本名・大瀧榮一)である。大滝は、養護教諭だった母親が転勤するたびに町を移り住む。釜石南高に進んだ後、予備校へ通うために上京した。
 上京後、立教大生だった細野晴臣(ベーシスト・後にYMO)と知り合う。1969年、21歳のときに細野晴臣・松本隆(ドラマー、作詞家)・鈴木茂(ギタリスト、編曲者)と共に「はっぴいえんど」を結成した。このバンドは、フォーク全盛の時代に〈日本語によるロック〉にこだわった。3年間だけの活動だったが、今でも伝説のロックバンドとして語り継がれている。
 大滝は1973年に「ナイアガラ」レーベルをつくる。1981年に発表したアルバム『ロング・バケーション』は、日本で初めてCD化された栄誉あるアルバムだ。自らアルバムを発表する傍ら、「シュガーベイブ」や「ラッツ&スター」等をプロデュース。「シュガーベイブ」からは、山下達郎らを輩出した。このあと、他のアーティストにも曲も提供。その多くがヒットし、いつのまにか大滝詠一は「日本ポップスの父」と呼ばれるようになっていた。
 大滝詠一のバイオグラフィーには、「2歳の時に鹿踊りの太鼓の音にしびれる」と書かれてある。大滝は江刺に住んでいた10年の間に郷土芸能に触れ、音楽に目覚めたのかもしれない。
■江刺金札米の父小澤懐徳
 江刺耕地整理組合長・小澤懐徳は大正8年、愛宕村長に当選した。江刺郡農会長にもなった懐徳は、国策である耕地整理をし、増収を図るだけでなく、産米の品位を向上させる優良品種の選出普及が、困窮する江刺地方の農民を救ううえで急務と考える。
 岩手県農業試験場胆江分場で導入した新品種「陸羽132号」が冷害に強く、味も良いことから、懐徳は、これを江刺で普及すべきと決断。個人資金で秋田から種籾を購入し、希望者に頒布した。
 この産米宣伝のため、東京で試食会を開いたところ、全国一の味だと大好評を博し、注文が殺到した。初めは赤札だったが、後に金色の札を付けて売り出すと、「江刺金札米」として、たちまち全国的に名声が広まった。
 さらに懐徳は、立花の北上川(現北上市展勝地近く)から取水するという計画を立てる。多額の経費がかかる事業はやるべきでないとの反対派も多くいたが、あらゆる意見の人を説得し、人力による男山隧道開削の難事業に着手。昭和8年3月完工し、江刺平坦部を潤す大幹線用水路が完成した。大正9年、立花頭首工も完成。広瀬川、人首川を越えて田原、羽田まで灌漑できるようになった。
 昭和10年11月5日、小澤懐徳は新宿御苑における観菊御宴に召され、農事功労者として昭和天皇の単独拝謁を仰せつかった。
この中町に生まれ画業一筋に生きた愛郷の日本画家及川豪鳳
 及川豪鳳は本名を一といい、大正3年、19歳の時、日本画を志して上京。後に東京芸術大学日本画科の前身となった川端玉章が主宰する東京小石川の川端画学校へ入校した。
 画業が進んでいた大正5年、岩谷堂の両親が相次いで他界した。大正7年、川端画学校を卒業。卒業作品の植物写生は「甲上」という優秀な成績であり、師の川端玉章から「東京に留まって画家として大成するように」と諭された。自分も東京に留まりたかったが、弟妹のことを心配して岩谷堂に帰郷した。
 豪鳳は中町に居を構え、依頼されて、掛け物、ふすま絵等に花鳥の日本画をを描いた。四条派の流れを組む画風の作品は、極めて水準が高く、しかも自然愛、人間愛に溢れたものである。
 次の作品は、仏画の代表作である。毛越寺金剛院「釈迦三尊」(平泉町)、光明寺襖絵「寒山拾得図」(江刺市向山)、松岩寺所蔵「阿弥陀三尊図」(江刺市川原町)、広徳寺所蔵「白衣観音」(江刺市稲瀬)、安楽寺所蔵「大日如来」(北上市下門岡)、正法寺「鳳凰図」ほか(水沢市黒石)。
 江刺市中町は、蔵を活かした街並み造りにより一躍注目を浴びている。この流れの中で、中町に生を受けた豪鳳の作品群も再び評価されている。
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