■「江刺郡」の起源 延暦21年(802)に坂上田村麻呂が率いる朝廷軍がアテルイを首領とする蝦夷軍を征圧。この北上平野中部地域は大和朝廷の律令体制下に組み込まれることになった。 朝廷支配の下で、胆沢・江刺・和賀・稗貫・紫波・岩手の6郡からなる「奥六郡」が設置された。このあと、奥州の豪族・安倍氏がこの六郡を実質的に支配する。 ■六日町にあった郡役所 明治22年(1889)、市町村制が施行され、翌年に19郡が定められた。江刺地方は「江刺郡」となる。岩手県では19郡あった郡を明治30年に13郡に再編した。 江刺郡は1町12カ村を擁した。その町村とは、岩谷堂町・愛宕村・田原村・藤里村・伊手村・米里村・玉里村・梁川村・広瀬村・稲瀬村・羽田村・黒石村・福岡村(口内)のことである。 江刺郡を管轄する郡役所は、岩谷堂町の六日町に設置された。現在、納税会館が建つ場所である。なお、今の納税会館は旧江刺郵便局の建物であった。 郡制は、議決機関として町村会選出議員と大地主互選議員による郡会を構成。郡長と郡委員が行政を担当した。 ■宮沢賢治と江刺郡役所 宮沢賢治が初めて江刺を訪れたのは、大正6年8月。賢治が盛岡高等農林学校3年の時で、目的は土性調査であった。 この調査を依頼したのが江刺郡役所。つまり、賢治と江刺を結びつけたのは江刺郡役所だということになり、江刺の賢治ファンとしては、当時、郡制がしかれていたことに感謝せずにはいられない。 ■郡制は大正12年に廃止 大正中期、郡制廃止の問題が浮上した。 市町村の自治制が実施されて以来、各自治体は発達・拡大しており、県と市町村の間にある中間的・重複的な郡制自治は必要ない、という声が高まってきていたからである。 大正10年4月、原敬内閣は郡制廃止に関する法律を公布。同12年4月1日より自治体としての郡制は廃止された。このとき、各郡が編纂した「郡誌」は、今では貴重な歴史的、民俗的資料となっている。 昭和29年に羽田村と黒石村が水沢市へ、福岡村が北上市へ編入することになり、江刺郡は1町9カ村となった。江刺郡内の町村は昭和30年に合併、江刺町となる(市制施行は33年)。 現在、「郡」は単に地理上の区域としてのみ使われている。
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