落語家
桂枝たろう
桂枝太郎1
桂枝太郎さん
桂枝太郎2

衣川荘で毎年開催している
ふるさと寄席にて

桂枝太郎3


桂枝太郎4


桂枝太郎5

 

きっかけは岩高の芸術鑑賞会

「私の家は衣川の農家。父はJA、母は土地改良区に勤めていました。私は園芸でなく、演芸の道に進みました」
 枝太郎さん、本名・佐々木修市さんが落語家を志すきっかけとなったのは、岩高3年の秋に行われた芸術鑑賞会。会場は江刺市体育文化会館(現ささらホール)だった。
 そこに四代目桂米丸師匠が訪れ、岩高生の前に座った。卒業を控えた3年生の修市さんは、米丸師匠が話す映画を扱った新作落語を聴いた。客席は大うけ、大爆笑だった。
「70歳を過ぎた爺さんが、高校生をこんなに笑わせている。落語は凄い。なんて新しく刺激的なんだ!」
 当時はダウンタウンやウッチャンナンチャンなど、お笑いコンビの人気が急上昇していたころ。お笑いや漫才は大好きだったが、落語は古くて堅苦しいものだと思い込んでいた。ところが、目の前で聴いた落語の面白さに衝撃を受けた。
 修市さんは、さっそく桂米丸師匠へ、「落語家になりたいです」と手紙を書く。
 返事はすぐに電話で来た。衣川の実家で祖母が電話を受けた。「米丸さんからだよ!」と言われて、修市さんは仰天したという。
「本気なら話を聞こう。ところで君の歳はいくつだ? そうか。では高校を卒業してから来なさい」
 卒業式の前日、東京・中野にある米丸師匠の自宅を訪ね、改めて入門のお願いをした。米丸師匠から落語修業の厳しさについて、こんこんと諭された。
「本気なんだね。君が真打ちになるまで15年。僕はもう年だから、それまで生きていないだろう。落語をきちんと仕込んでくれる歌丸さんを紹介しよう」
 このとき、入門を断られる心配を全くしなかったという。不安というよりも、自分はきっと大丈夫だろう、という根拠のない自信があった。今、枝太郎さんは、そのころの気持ちを「若かったから、行動力があったんだろうと思います」と述懐する。

入門を許され修行、いきなり高座

 1996(平成8)年6月、修市さんは、米丸師匠から紹介された歌丸師匠より入門を許された。
 同じ時期の入門者には大学卒が多かった。大学の落語研究会出身者が多いからだ。落語の世界では、高校卒は意外に少ないと枝太郎さんは言う。中には社会人を経てから入門を果たした、かなり年上の者もいた。
 修市さんは、前座名「桂歌市」をもらう。修行は、まず師匠の家の掃除から。そして師匠の行くところ、どこへでもついて行き、寄席のお茶汲み、着物たたみ、前座の太鼓叩きやなど、修行を始める。
「一年中休みなし。朝から晩まで拘束される。辞めたい人は、辞めた方がいい世界だという教えがあった」
 落語は師匠の落語を聴いて覚え、師匠の目の前でやってみせる。新人は寄席で、前座として4、5年間を過ごす。
 入門してから、わずか3カ月後、枝太郎さんは演芸場の前座で、いきなり落語をやることになる。
「たとえば、料理人の世界だと考えられないですよね。『初めて作った料理ですが、お客様どうぞ』というわけには絶対いかない。それが落語ではまかり通る。客前で経験を重ねないと噺にならないから、という理由。落語は不思議な世界なんです」

寄席と落語というもの

 寄席というのは、バトンタッチをするリレーのようなものだという。前の演者の出し物で時間を調整し、最後に高座に座る「トリ」を引き立てる。
「落語の凄いところ。たとえば〈いい女〉と言っても、聴く一人一人の思いは違う。その情景は100人に100通りある。ただ笑わせるだけじゃない。人生のうんちくが含まれ
ており、テーマには教訓がある。
 先輩から怒られることもしばしばだった。でも、枝太郎さんは、奥の深い落語がどんどん好きになっていった。

「二つ目」になって、突然…

 途中で失敗もあった。歌丸師匠に叱られ、一門をクビになりそうになったことも。そんなときは、師匠のおかみさんが庇ってくれた。落語をやめて他にやりたい仕事もない。心から師匠に謝罪すると、許しがもらえた。
「二つ目」に昇進し、「桂花丸」と改名した24歳のとき、精神面で壁にぶつかった。新宿末廣亭の高座で、突然呼吸ができなくなってしまう。吐き気もするので胃の病気かと思い、まず内科で診てもらったが分からない。
 原因はパニック障害。それまで若さに任せ、落語に取り組んできたが、二つ目になったことで、無意識のうちに責任を感じ、それが身体の不調に現われたのだろうと振り返る。
 そんなときに限って毎日仕事があり、辛かったが、2カ月経ち症状は徐々に回復していった。
「あそこで初めてプロの壁にぶつかった。あれを乗り越えて、プロ意識に目覚めたと思う。今も気持ちが悪いときがありますが、それは酒を飲み過ぎたときですね」(笑)

歌丸師匠を失って

 これまでは、「歌丸師匠に認められたい、師匠に褒められたい」という一心でやってきたという枝太郎さん。その歌丸師匠を平成30年7月に失った。今はぽっかりと心に穴が空き、ぼうっとしている状態だという。
 枝太郎さんは現在41歳。落語家は60代からが脂が乗ってくる仕事だ。
「私も60代に活躍できるかどうかですね。60歳になって、ちゃんとした落語をできるようになっていたい。歌丸師匠を見ても、全盛期は70代の半ば。その後、体調を崩した。歌丸師匠は、身体に呼吸器を付けても引退しなかった人。病気と闘う様子をさらしながらも、落語を続けた師匠。そのうち、私も歌丸師匠の気持ちが分かるようになるのかな。落語を極めるなんてない。未完成のまま。タレントだったらいろいろできるが、落語家は落語で勝負。私も頑張らないと。それに歌丸一門を栄えさせて、二代目歌丸を誰かが継がないとね」

岩手で実現したい夢

 岩手県にはクラシック愛好者とジャズファンが多いと言われる。そして落語ファンも少なくない。落語は聴く方にも、ある程度の素養が必要な芸。クラシックやジャズと似ている。
「石川啄木、宮沢賢治をはじめ、文学でも凄い人を輩出している岩手県。言葉や文字の感性は鋭いと思う」と枝太郎さん。
 岩手県内で寄席の開催が増えている。枝太郎さんが真打ちになったからだろう。
「少しは故郷で落語を広げられたのかなと思う。私は岩手で実現したい夢がいっぱいあります。仙台に『花座』という寄席小屋ができましたが、岩手にもつくりたい。盛岡辺りに寄席をつくりたいな。月1回の開催でもいいから」
 岩手ローカルで落語のテレビ番組を放送してもらいたいとも語る。
「テレビに出ている落語家以外にも面白い落語家はたくさんいる。いろんな芸人さんを紹介したいんです」
 枝太郎さんの夢は、故郷岩手でも大きく膨らんでいる。


■桂枝太郎さんから、母校岩谷堂高等学校の在校生に向けて、心のこもったメッセージを送っていただきました。

 人の生き方は一つじゃない。一度や二度、はずれたっていい。生きていける。いい高校からいい大学へ。それはそれで素晴らしい。自主性と発想があれば、人生は面白いんじゃないか。たとえば学校を中退した、ひきこもりになった。でも、人生は、そこで終わりじゃない。何かを絶たれたら、お先真っ暗。それで自殺じゃつまらない。道は一つじゃない。
 落語家は敗者や怠け者、臆病者を肯定する。頭のぼんやりした与太郎、働くのが嫌な若旦那、朝から酒を飲んでいる職人等、負け組の人たちを「そのままでいいんだよ」と認めるんです。価値観はさまざま。幸せは自分で決めるもの。
 人生は、学校を卒業してからの方が長いし、面白い。出会いも多い。何もしばられることはない。私も落語家になって、世界が広がった。こんな世界がある、あんな世界がある。いろんな職業があり、道がある。狭める必要なんてない。
 実際に、こんなで食えるんだ、という職業がいっぱいある。先生の言うことが、全てじゃない。自分自身で責任を持ち、自分で探してほしいと思う。
私は岩高に入っていなければ、落語家になっていない。岩高に感謝している。今の岩高には総合学科がある。それはいろんな可能性があるということ。自分を試してみたらいいんじゃないかな。


 ■PROFILE■ かつら えだたろう(本名/佐々木修市)

平成8年3月、岩谷堂高等学校卒業(普通科第47回)
奥州市衣川(旧胆沢郡衣川村)出身。横浜市在住。
落語芸術協会、真打ち。マセキ芸能社所属。
平成8年9月、桂歌市。平成12年、桂花丸。平成21年、三代目桂枝太郎を襲名。新宿末廣亭を皮切りに都内寄席、全国真打ち昇進襲名披露。キングコング西野氏の紹介で、フリーアナウンサーの大河原あゆみさんと結婚。娘さんが1人。いわて文化大使、奥州大使。

[得意演目]新作落語、古典落語、狂言落語。岩手県を題材にした落語も創作している。

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