ホンダカーズ岩手南株式会社 取締役会長
渡邊康喜
渡邊康喜1
渡邊康喜さん
菅原昭平著書

ホンダNSXと渡邊さん
(平成24年冬・向山公園で)

菅原昭平著書

4代目ホンダ社長の川本信彦氏と
(平成7年・ハワイにて)

菅原昭平著書

平成7年「計画達成優秀法人賞」の楯

菅原昭平著書

 

 
 
 

商業科の第1回生として入学

 プロパー(個人会社)として、岩手県初のホンダディーラーとなり、県内全ディーラーの会長にも就任した渡邊康喜さんの夢のようなストーリーを紹介する。
 康喜さんは、昭和38(1963)年4月、岩谷堂高校が岩谷堂農林高校と分離したあと、岩谷堂高校に新設されたばかりの商業科に入学した。岩高2年生のとき、東京オリンピックが開催されている。
 康喜さん自身は、普通科志望だったと言う。
「親父が普通科は絶対駄目だと言うから、仕方なかった。先生からは、簿記1級とれば普通科の勉強をしていい、と言われた」
 そこで3年生で習う銀行簿記を2年生のときに1級を取得した。
「だから商業科の勉強は、真面目にしていない。成績も悪かったはずだ。受験科目は、みんなより良かったかも」
 高校生活は精力的に行動した。1、2年生のときはクラス委員長に指名され、3年生には応援団リーダーを務めた。

一度、東京で就職したが……

大学に進学したかった。しかし、父親の同意を得られないので、一度就職して働き、進学費用を貯めようと考えた。
 岩高卒業後、東京に住んでいた伯父のつてで、池袋に本社がある城北マツダに就職。営業部に配属された。
「池袋だから、街を立教大学の学生が歩いている。いいなあって思った。自分も大学に行きたいと改めて思った」
 ところが、思いがけない事態が起こった。

身体を壊し、1年半の入院

 働き始めて半年経ったころ、体調を大きく崩してしまった。原因は栄養失調。大学に進む費用を貯めるため、なるべくお金を使わないようにと、食費を切り詰めていた。
「3カ月も4カ月も、毎日インスタントの袋ラーメンばかり食ってた。ある朝、洗面器で顔を洗っていたら、鼻血が出て止まらなくなった」。洗面器の水が真っ赤に染まった。
 江刺に帰省して、菊地医院に入院した。菊地先生からは、「治癒するまで時間がかかるよ」と言われた。
「半年も入院した。昼は寝ているが、夜は猛勉強していた。入院していたのだから、仕事はしていない。でも給料はもらっていた。大学に合格して名古屋に行くまでもらっていた。給料の6割が出たんだ。保険も下りた」
 入院が影響し、大学受験は岩高を卒業してから2年後になった。

中京大学に合格。名古屋へ

「東京の私立大学を受験したが、全部不合格だった。それで2次募集があった名古屋、大阪、京都の私立大学を、その大学まで行って受験したんだ。そのうち、いくつか合格して、名古屋の中京大学に入学したわけさ」
 受験していたのは法学部法律学科。当時から法学部は就職がよかった。試験は同じ大学の他の学部より難しかった。
「授業料は中京が一番安かった。最初は学生寮に入った。お金がなかったからね。親は相変わらず大学のことには反対していた」

いろいろな資格を取りまくる

 康喜さんの経歴を見て、取得した資格の多さ、種類の多様さに驚愕する。
「何か資格があれば、食っていけると思って、大学在学中から、資格試験を受けまくった」
 自動車関係の免許は、全部取ろうと思っていたという。自動車自体は好きだった。
「親父の仕事とは関係ないよ。一生のうち、いつか乗るかもしれないと、バスの免許まで取得した。資格を取ることなんて、そんなに難しくないよ」
取得した資格、合格した認定試験は、自動車関係にとどまらない。調理師免許、高校教諭2級免許、図書館司書免許、小型船舶操縦士免許、狩猟からスカイダイビング、柔道の段位まで数えると、優に30を超える。

証券会社に就職したが……

 中京大学卒業後に就職した会社は、名古屋に本社があった丸万証券。
「先輩から、この証券会社はアメリカに行かせてくれる、と聞いていたので選んだ。世界経済の中心、ニューヨークのウォール街に行ってみたかったのさ」
 働き始めたある日、突然、父親と母親が名古屋まで訪ねてきた。
「康喜、家に帰ってくれと言うんだ。帰りたくないと断った。親父が言いたいことは、ツナギを着て自動車の整備しろ、ということだと分かっていたよ」
 康喜さんは、「大学まで出て、俺はそんな生き方したくない」と思ったが、「お前がやりたいようにやっていい」と言うので、その言葉を信じて江刺に戻った。

中古車業を弟に譲る

「好きなようにやっていい」と言うので、岩谷堂・八日市の狭い土地で中古車を売り始めたら、思いのほか売れた。そこで現在の東北銀行江刺支店のところの土地を借りて、中古車売場を拡大したら、これまた売れた。
「そしたら、またも親父が、中古車屋は弟に譲れ。お前は整備工場に来いと言うんだ。だまされたと思ったね。整備工場は絶対に継ぎたくなかった。親父とは考え方が違うから、家を出ると言ったんだ」

レストランを開業し大当たり

 何か事業を起こそうと思った。稼ぎたかった。一関にある国民金融公庫に融資の相談しに行くと、担当者が「何か資格はありますか?」と聞いてきた。「あります」と答えて、取得していた資格のリストを見せたら、その数の多さに、「なんだ君は」と驚かれた。 
 調理師免許も持っていたので、融資を受けることができ、水沢駅前にレストラン「ノーブル」を開業した。これが大当たりした。
「稼いだね。今から40年くらい前だろ。東北自動車道の工事、東北新幹線の工事関係者が毎晩来てくれた。当時は接待に使われたんだ。つまり接待費で潤ったのさ。夜遅くまで営業したこともよかった。レストラン経営は、時期折りにぴったし合ったんだね」
 エビの頭付き料理やステーキなど、豪華料理の注文が次々と入った。一日40万円売り上げた日もあった。
「私は調理しない。経営者さ。レストランはうまくいった。考えられないほど儲かった。時代を読めたというか、ピンチをチャンスに変えることができた。でも、レストランは3年半で権利を譲ったんだ。あのまま自分が続けていれば、きっと駄目になっていただろう」

水沢で中古車業を始めて3年後

 昭和54年3月、水沢市秋葉町に「水沢マイカーセンター」を設立。開業後、順調に売上げを伸ばした。
 3年ほど経ち、花巻店を開業した。ある日、本田技研の岩手県責任者から、「食事でもしませんか」と誘いがあった。「なんだろう」と不思議に思ったが、会うことにした。
 その責任者といろいろ話して驚いた。自分のことが全部調べられていた。証券マン時代に、ウォール街に憧れていたことまで知っていた。要件は「ホンダのディーラーをやってみる気はないか」ということだった。仰天した。青天の霹靂だった。

ホンダからディーラー契約の誘い

本田技研は、岩手県内で販売契約を交わせる会社と人材を探していたのだ。
「ホンダから誘われているんだ」
 妻の健子さんに話すと大反対された。「今、中古車販売が順調なのに、これ以上広げる必要はないんじゃない」と言われた。
「私も男だ。お金があればいいというもんじゃない。ディーラーになってみたいし、名誉だって欲しい」
妻の反対を振り切って、康喜さんはホンダのディーラーになろうと決意をする。
 自動車ディーラーは、その地域の老舗財閥系企業が行うことがほとんど。信用を最重要視するからだ。
「うちのようなケースは珍しい。まだ(ディーラーの空きが)残っていたんだね」

ディーラー開業への助走

本田技研と相談しながら、まず昭和57年11月、花巻市桜町にカーセンター花巻を開店。翌58年4月に、「株式会社渡辺自動車販売」を法人登記した。
 だが、すぐディーラーになれたわけではない。お世話になっていた同業の先輩から、なかなか理解を得られないなど、さまざまな試練にぶち当たった。
 昭和58年11月、「カーセンター花巻」を桜町から似内へ移転。翌59年1月、法人登記してカーセンター花巻を独立。
 中古車販売の方は、昭和60年、北上市大通りに北上店をオープンした。

ホンダとディーラー契約を締結

 昭和60(1985)年7月1日、本田技研工業株式会社と基本取引契約を締結した。同年11月11日、有限会社カーセンター花巻を「株式会社ホンダ岩手販売」に組織変更する。新しいホンダ系ディーラーが誕生した。
ホンダ岩手販売は、昭和61年2月、花巻空港店をオープン。昭和62年10月には、水沢店をオープンする。昭和62年11月、その水沢店に本店を移転した。
 平成に入ると盛岡進出を計画。平成6年1月、盛岡市三本柳に盛岡南店をオープンする。
シビック、アコード、プレリュード、CRーX、トゥディ……。この時代、スタイリングに優れ、高性能のホンダ車は、若者の心を鷲づかみにしていく。

売上達成率全国3位でアメリカへ

 平成7年8月、株式会社ホンダ岩手販売から、「ホンダプリモ岩手南株式会社」に社名を変更した。その年、ホンダプリモ岩手南は、快挙を成し遂げる。
およそ1200社のプリモ系法人のうち、売上げ達成率が全国第3位となったのだ。
「1995年 計画達成優秀法人賞」の表彰式には驚いた。ホンダがチャーターしたジャンボ機でアメリカへ飛び、なんとラスベガスで表彰が行われた。
 ラスベガスに招待されたのは、上位300社の社長たち。達成率10位以内は、本田技研四代目社長の川本信彦氏と同じテーブルで会食する栄誉に恵まれた。
「都道府県ごとに販売台数の目標がある。その達成率が全国3位。簡単にできることではない。名誉なことだったし、川本社長と同じテーブルで食事なんて、夢みたいだった」

達成率、5年連続で上位に

「表彰式から帰国の途中には、ハワイに寄って、みんなでゴルフをした。そのゴルフ場はハワイアンオープン開催の実績があるパール・カントリークラブ。ホンダが所有しているんだ」
 翌平成8年は、達成率全国6位。
「凄いな。10位以内が2年連続だもんね」
 平成9年から平成11年にかけては、10位以内には入らなかったものの、はやり上位に入賞し、常務取締役で営業本部長の土橋哲氏より、「計画達成賞」を授与された。
 何度も表彰式に出席しているうち、康喜さんは土橋常務と親しくなった。
 
社長を長男、健一郎さんに譲る

 平成20年、社名を「ホンダカーズ南岩手株式会社」に変更。平成25年、代表取締役社長を長男の健一郎さんに譲り、康喜さんは取締役会長となった。
「長男の健一郎は昭和48年生まれ。今、私は71歳。歳を取ったから譲っただけさ。彼のやり方でやればいい。別に期待はない」
現在の売上高は、およそ44億円。従業員は100人ほどだ。新車の販売拠点は、北から盛岡南、矢巾、花巻空港、北上南、奥州中央、奥州南の6店舗。中古車販売は、水沢・佐倉河の「オートテラス水沢」で行い、本社機能はここに置いている。

本当に好きな趣味は…

「趣味は釣りさ。 海でも川でもいいが、渓流釣りが好きだ。和賀川の源流の方へ行くよ。本当は釣りそのものより、道具作りが好きなんだ。ほらっ」と、自宅2階の壁に掛かるいくつもの道具や仕掛けを指さす。
驚かされるのは海外旅行の多さだ。すでに海外渡航は30回を超えている。主に世界遺産を訪ねているという。
「忙しいのに、よく時間を見つけて旅行に行くね、とは言われる。世界遺産は国内を合わせると60カ所くらい行った。どんな国でも特徴がある。世界遺産のマチュピチュには、素晴らしい文化があっても、文字がなかったんだよ」
釣りと世界遺産巡りが趣味かと思いきや、一番の趣味は、さらにこだわったものだった。
「初版本集めが好きだな。年に何回か東京のデパートなどで展示即売会が開催される。値段は一冊数十万円したときもある。これが大江健三郎。これが芥川龍之介の古書本。三島由紀夫や川端康成の本もあるよ。なぜ好きかって? 時代の匂いがするからさ」
書棚には、ずらりと文豪たちの初版本が並んでいる。まさに圧巻だ。

旧緯度観測所の保存活動に尽力

 康喜さんは、若いときに苦労をし、経営者となってからは大きな業績を残して、現在の地位を築いた人だ。なのに、とても気さくな人柄で、尊大なところがない。
 現在は、世の中に恩返しをしたいという思いから、自動車関係団体、経済団体の役職を数多く務めている。その数は数えきれない。
 社会活動にも貢献している。青少年の健全育成活動に協力しているが、特筆すべきは、平成17年11月から特定非営利活動法人(NPO)「イーハトーブ宇宙実践センター」の副理事長を務めていることだろう。
日本初の国際的観測施設、緯度観測所本館は、大正10年に建てられた。昭和42年まで使用されていたが、老朽化に伴い、平成17年10月に取り壊しが決まる。
 康喜さんは、宮沢賢治とゆかりの深い、この建物の保存活動に関わった。康喜さんが副理事長に就き、有志と共に国立天文台、奥州市、奥州市議会などに働きかけた。平成18年2月の市民集会を経て、歴史的な価値を持つ本館建物の譲渡と保存を実現した。

スポーツカーの疾走は続く

 現在、保存された旧緯度観測所の本館が、「奥州宇宙遊学館」としてリニューアルされ、子どもたちの科学教育に活用されていることは、衆知の通りである。
「平成18年の10月、理事長の大江昌嗣さん(元国立天文台教授)たちと一緒にハワイに行き、すばる天文台で望遠鏡を見てきた。天文台は標高4000メートル以上の場所にあった。麓が真夏でも望遠鏡がある場所は寒い。星を見に行くことは大変だ」

 渡邊康喜さんが運転するスポーツカーは、銀河鉄道のように宇宙に飛び出した。疾走は続く。まだまだロマン街道の終点にたどり着きそうもない。


 ■PROFILE■ わたなべ こうき

岩谷堂高等学校商業科 昭和41年3月卒業(商業科第1回)
中京大学法学部法律学科 昭和47年3月卒業。
昭和22年11月2日、江刺郡伊手村生まれ。奥州市水沢在住。

[主な資格]
昭和40年1月 簿記実務検定合格(銀行簿記1級)
昭和44年12月 危険物取扱主任者(乙種4類)合格
昭和45年10月 調理師免許試験取得
昭和47年3月 高等学校教諭2級普通免許
昭和47年3月 図書館司書教諭免許
昭和47年4月 有価証券外務員
昭和47年9月 大型2種免許取得
昭和49年10月 1級小型船舶操縦士免許取得
昭和50年2月 保険外務員(生命保険の部)
昭和53年5月 2級ガソリン自動車整備技能者
昭和60年4月 日本陸上競技連盟公認審判員
平成8年1月 スカイダイビングAライセンス

[主な経済団体・社会活動歴]
平成元年 水沢信用金庫 総代
平成7年 水沢信用金庫東信会 会長
平成16年 ホンダ自動車販売店協会 岩手県ホンダプリモ会 会長
平成17年 社団法人岩手県自動車整備振興会 理事
平成17年 特定非営利法人イーハトーブ宇宙実践センター 副理事長
平成19年 水沢商工会議所 常議員
平成22年 水沢信用金庫 非常勤監事
平成26年 水沢信用金庫 理事
平成28年 岩手県自動車販売店協会 会長
平成28年 一般社団法人 日本自動車販売協会連合会 岩手県支部長
平成28年 一般社団法人 日本自動車連盟(JAF) 副支部長

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